開催概要

■日 時 2024年8月20日(火)19:30〜21:30
■テーマ 夏休み明けの子ども・若者の心を守るために
■形 態 Youtubeでのオンライン配信(https://www.youtube.com/live/e1MxXtzZOvs
■登壇者
鈴木 洋平 氏(NPO法人 自殺対策支援センター ライフリンク 情報デザイングループ グループ長)
今 じんこ 氏(エッセイ漫画家)
前北 海 氏(NPO法人多様な学びプロジェクト 副代表理事)
モデレーター:関戸 博樹 氏(NPO法人日本冒険遊び場づくり協会 代表)
※登壇者のプロフィール詳細はリンク先にてご確認ください。
■主催等
主催:NPO法人多様な学びプロジェクト
共催:#学校ムリでもここあるよキャンペーン実行委員会
協力:NPO法人フリースクール全国ネットワーク、認定NPO法人チャイルドライン支援センター
助成:令和6年度 独立行政法人 福祉医療機構 社会福祉振興助成事業
後援:内閣府、こども家庭庁

抄録版はこちらから

基調講演 鈴木 洋平 氏

本日は大きく三つのことをお伝えします。一つが子どもの自殺問題の現状、二つ目が「助けて」と言わない/言えない子どもたちの存在について、三つ目が大人や周囲の人ができる事について。
一つの目の子どもの自殺問題の現状についてお話をします。
まずこの20年の自殺者数推移に関してですが、自殺者数の総数は2009年から減少傾向にありましたが、2020年のコロナ以降、11年ぶりに増加に転じてしまって今にいたるまで増減を繰り返しています。一方で子どもに関してはこの20年というスパンで見ると一貫して増加傾向にあると言えます。特にコロナ以降、2020年以降は500人近くになり、一昨年と昨年に関しては514人と513人と500人を上回る数字になってしまっている現状があります。

次に過去40年の小中高生の自殺者数を日別に見てみます。少し古いデータではありますが、2014年より遡って過去40年間の18歳以下の日別の自殺者数は、特に全国的に夏休み明けとなる事が多かった9月1日が突出して多くなっています。

次は昨年と今年の直近2年の小中高生の子どもの月別の自殺者数推移の比較を見ます。今年の1月から6月の小中高生の自殺者数の累計は今現在229人、2023年の同時期と比較すると5人増えています。このままだと最終的に前年を上回ることが懸念をされている状況です。

ここまでお話ししたことを整理すると、小中高生の自殺者数は2022年に514人、2023年に513人と過去最多ペースで高止まりの状況が続いています。今年も1月から6月の期間で、すでに229人が自殺で亡くなっていて、全く歯止めがかかっていないという状況です。
特に9月の自殺者数は過去2年で57人、54人といずれも50人を超えている状況で、9月は1年で最もリスクが高まりやすい時期と言えます。1年で自殺で亡くなる子どもが500人もいる現状と、あと可視化されていないもう一つの現実として、その背後にはさらに多くの悩み苦しんでいる子どもがいることが考えられます。

今の学校、子どもの自殺問題を取り巻く概況について、次に「助けて」と言わない/言えない子どもたちの存在についてお話しします。
そもそもなぜ子どもは自ら命を絶つことを選んでしまうのか。一般的には自殺で亡くなるケースの多くは、その背景に複合的な悩みや課題が連鎖していると言われています。子どもの場合も同様のケースもあれば、一つの特定の悩みの深刻さが増して自分自身ではどうしようもなくなってしまうようなケースも少なからずあります。いずれにしても「もう生きられない」「死ぬしかない」という気持ちを抱えて追い込まれた末に自ら命を絶ってしまうという現状があります。
だから、追い込まれてしまうプロセスで子どもからいかにSOSを発してもらえるか、大人がいかにその異変に気付くことが出来るかが重要になってきます。しかし、子どもの自殺の予兆は見えづらいということも分かっています。いのち支える自殺対策推進センターがこども家庭庁の委託事業として行った子どもの自殺に関する実態調査の報告書のデータを見ると、過去5年間に自殺で亡くなった小中高生の学校の出席状況は「以前と変わりなく出席」が最多の44%となっています。また、同じく過去5年間に自殺で亡くなった小中高生のうち、保護者や学校が友人に「自殺の危機を気付かれていた」ケースは18%である一方で、「自殺の危機や変化も気付かれていなかった」ケースが最多の21%となっています。こうしたデータからも子どもの自殺の予兆が見えづらいことがうかがえます。

この「もう生きられない」「死ぬしかない」と感じている子どもの状況は、たとえば「誰かに相談したいけど身近に相談できる人がいない」だったり「誰かに相談したい気持ちはあるけど、より傷つくことになったり、事態が悪化するかもしれない」と感じていたり、あるいは「誰かに相談したいけど身近に相談できる人がいなくて相談窓口にアクセスしてみたもののつががらなかった」り、また「以前身近な人に相談した経験はあるけど、そのときの体験からもう相談したくないと感じている」、そして「そもそも相談したい気持ちはない」ということで、相談することが選択肢にない子どもも一定数います。
希死念慮に関する主な相談先について、日本財団が定期的に行っている自殺意識調査を見ると、調査対象が18歳から29歳なので少し子どもから外れますが、「どこにも誰にも相談しなかった」という回答が圧倒的多数となっています。こうしたデータからも相談に対する抵抗感があることがうかがえると思います。もう一つ、悩みや心配事の相談先について日本と諸外国とを比較したデータを見ると、相談先はある程度近い傾向にありますが、「誰にも相談しない」という回答した割合が、諸外国と比べて日本は圧倒的に高いです。こういったデータからも諸外国と比べても日本は相談に対してハードルを感じてしまっている若者が非常に多いことがうかがえるかと思います。

では、なぜ相談することにハードルを感じてしまうのかというと、「相談してもどうせムダ」とか、「相談したら面倒くさいと思われそう」とか、「相談することで心配や迷惑をかけたくない」とか、あとは「自分のキャラクター的に相談なんてできない」とか、「相談するのは恥ずかしい」とか、「なんでつらいのか自分でもわからない」といった声あります。『かくれてしまえばいいのです』の発表ルーム(掲示板)に実際に「つらい気持ちを言葉にできない。うまく説明できない。助けてほしいけどどうしたらいいのかわからない」という書き込みがあり、こういった気持ちを抱えた子どもが一定数います。
ただ、相談することで改善されるという事例もいくつかあります。たとえば、いじめに関して、世の中の多くの子どもがいじめの問題は相談してもしょうがないとか、事態が悪化するだけじゃないかと考えがちだと思いますが、滋賀県大津市いじめに関する実態調査の統計などからうかがえることとして、実際にはいじめについて相談した結果事態が改善したというケースが約7割を占めていたりもします。
いじめに限らず、特に子どもが抱えがちな悩みというのは一人で抱え込むほど悪化しやすいというケースが多いと思うので、いかに大人に早くつながるか、大人に早く相談できるかが重要になってきます。こうしたデータからわかることは、相談することで状況が変わるかもしれないという知識を子どもたちに広げていくこと、また、それでも相談がちょっと難しいと感じる子どもには相談以外の選択肢を広げていくことが大事だと考えています。

これまでの話を踏まえて最後に大人や周囲の人ができることについて。まずマクロのレベルで社会としてやるべきことは、相談窓口の受け皿の拡充があります。今は子どもが相談窓口にアクセスをしても、どこの相談窓口も逼迫してしまっていてつながりづらい状況があります。ライフリンクもSNSと電話で相談窓口をやっていますが、SNSでは大体毎月1万人前後の方から相談があっても、実際に対応できるのは3割から4割という状況です。子どもがアクセスした時に確実に相談につながるための対応率の向上は喫緊の課題だと感じています。
もう一つは相談することのハードルを下げることです。相談した結果、事態が好転した事例を社会的に共有することで、子どもが何か困ったときに「相談すれば大人が解決してくれるかもしれない」というイメージを持ってもらうことが大事だと思います。また、相談窓口もまだ知らない子どもも一定数いると思っています。相談窓口の認知の拡大や利用の促進をしていく事も大事だと思います。加えて相談する以外の選択肢の提示として、死にたい気持ちをやり過ごせる場としての居場所の拡充も必要になってくると思います。
次にミクロのレベルで、大人や周囲の人ができることも三つあります。一つが相談しやすい環境、土壌づくりです。直接子どもに関わることが多い大人であれば、子どもがしんどくなったときにSOSを出せる関係性の構築や、平時からの声かけなどです。
二つ目にSOSの受けとめ方の知識を身につけることです。SOSをちゃんと受けとめようという気持ちを持つ大人は今とても増えていると思いますが、具体的な対応についての知識を広げていく必要があると思います。たとえば「死にたい」といわれた時に、そこで否定をしてしまったり「そういったことを言わないで」というリアクションをしてしまうと、それだけで子どもは「もうこれ以上本音を話せないんだ」と思ってしまったりもするので、まず大人側が怖がらずに気持ちを受けとめて話を聞くといった知識を身に付けることが大事だと思います。
最後に子どもに提示できる選択肢を知る、伝えることについて。今、匿名・無料で利用可能なチャット相談が非常に増えています。我々が運用している『かくれてしまえばいいのです』といった居場所などもいくつかあるので、それらを知って子どもたちに伝えることも大人や周囲の人ができることだと思っています。
この『かくれてしまえばいいのです』は、相談以外の選択肢として居場所の活動の一つでもあると考えていて、我々ライフリンクが運用しています。これは生きることがしんどいと感じている子どものためのWeb空間で、今年の3月に公開して現在のアクセス数900万回を超えていて、もう少しで1000万に達する見込みになっています。

生きることがつらいときに、この世から消える、自ら命を断つのではなく「かくれる」という選択肢を提示しています。匿名・無料で24時間いつでも誰でも利用可能ですので、死にたいという気持ちを抱えながらも安全に安心して過ごせる設計をしていて、加えて死にたい気持ちを持つ人が集う場でもあることを前提としたリスク管理も徹底して行っています。また、イラストを見ていただくとわかる人はわかるかと思いますが、「かくれる」のコンセプトの策定や、世界観、コンテンツ制作には子どもに非常に人気のある絵本作家のヨシタケシンスケさんに全面的な協力をいただいています。是非皆さんもこの『かくれてしまえばいいのです』を一度利用してみていただけたらと思います。
最後に、2022年が57人、2023年が54人、これはそれぞれの年の9月に自殺で亡くなった子どもの数です。たった一ヶ月の間に50人以上の子どもが自ら死を選ばざるを得ない状況に追い込まれている現実があります。そして可視化されていないもう一つの現実として、これらの数字の背後にさらに多くの「死にたい」という気持ちを抱えた子どもがいると考えられます。それらの現実に対して私たちは一体何ができるのか。
自殺対策というと特別な取り組みのように聞こえるかもしれませんが、自殺対策は「生きる支援」でもあるので、子どもが自殺ではなく生きる道を選べるように支援すること、そうした社会をつくっていくことに私たち一人ひとりができる事を一緒にやっていけたらと思います。この場もまさにその一つだと思っています。

ゲスト自己紹介

今 じんこ 氏

エッセイ漫画家をしています。
『学校に行かない君が教えてくれたこと〜親子で不登校の鎧を脱ぐまで〜』というコミックエッセイの本を去年の4月に出版しました。小学6年生と3年生の息子をもつ母です。長男が小学校1年生の5月に学校に行かないと宣言して、五月雨登校や別室登校などを経て、親子で悩んだり、当時は私もうつになったり大変なてんぱりぶりを経て学校に行かない選択をして笑顔になるまでを書いています。
それを大きく四つの時期に分けて不登校の鎧を脱ぐまでを漫画にしていますが、最初を「混乱期」としています。子どもが学校に行きたくないと言ったときに、私は不登校に対して偏見はないと自分では思っていたけど、実際は理解もしていなかったし、偏見の塊でした。よその子に対しては「なるほどそういう道もあるよね」と思えますが、我が子のことになると難しくて。すごく寄り添ってあげたいけど、ものすごくキレるみたいな時期で、子どもも荒れているし私も荒れている状態でした。学校の先生もとても親身になってくれるのですが、基本的には学校に行けるように頑張ろうというアプローチだったので、私もそう思っていたし、でも悪意のある人なんて誰もいないのにいろいろと食い違ってすごく混乱したのが最初でした。
二番目の「迷走期」では、相談先を探したりしたけど、「学校に行けているなら良かったですね」を言われたり、行政の機関にもなかなかつながれなくて、つながれても何ヶ月も待つことになってしまい、待っているあいだに私もうつの状態がどんどんひどくなっていて、無自覚に夫にも「なんで理解してくれないんだろう」と思っていました。自分は仕事ができないし、子どもの別室登校に付き合ってどんどん自己犠牲の状態になってしまって、ここでも悪い人は全然出てこないのですが、すごく追い詰められてしまったっていう時期です。この時期がすごくつらくて、いろいろなところに相談するけど、先ほどの鈴木さんのお話にあったように「相談してもどうせ無駄だな」とか「話すの疲れた」みたいな、偏見とか無理解にすご傷ついていたので、自己開示ができなくなってしまって。なんかつらいし、相談したらつらいことが起き過ぎるから「もう言いたくない」と閉じてしまっていた時期でした。
そこから、このままでは多分子どもを虐待してしまうし、助けてくれる人がいないとやっぱりダメだと思って、いろいろなところに相談して、諦めずに人とつながっていったのが3番目の「成長期」です。傷つくこともあったけど、相談すると助けてくれる人がいっぱいいて、人で傷ついたけど、助けてくれたのも人だったことにこのあたりで気づけました。自分も子どもを理解していなかったし、不登校も理解していなかったし、周りと一緒じゃなくてもこの子のことがすごく愛おしいし、自分も違う生き方があるということがわかってきたのがこの時期でした。
最後は「脱皮期」としたのですが、この頃には子どもも頼れる大人も友達もいっぱい増えて、「これで良かったんだ」と思ったのがこのあたりです。この頃には子どもは小3だったのですが、「本当につらいことをいっぱい言ったし、傷つけてごめんね」と謝ったら、「いや、いいんだよ」みたいな。長男もすごい優しくて、「あのまま私が学校に行くことを頑張らせていたら多分命が危なかったから本当にごめんね」と言ったら、長男は「生きることに結構希望を持っていたから、自分で死ぬことはしないけど、あのままずっと学校にいたら多分精神的には死んでいたかもね」と言われたときに、「あ、良かった」と思って、あの時この子をとめることができて良かったと思いました。
自分が思う正解というのがとても視野が狭かったし、周りも悪意はないけど善意で皆が空回っていく、構造的に空回っていくということをたくさん経験して、でも今は皆んな理解でつながれるはずだと思っているので、今は元気になりました。今息子は小6ですが、とても元気に外で遊びまわったり、信頼している大人と関わったりしていて、こっちの道にこられて良かったと親子で思っています。

 

前北 海 氏

実は『かくれてしまえばいいのです』の中に僕も隠れているので、ぜひ見つけていただけたら嬉しいです。「生きるのは苦しいとの距離感〜僕の不登校の経験から」と題してお話をします。この「#学校ムリでもここあるよ」というキャンペーン、僕は実行委員の一人ですが、学校を否定しているのではなくて、いろいろな生き方があるし、先ほどの鈴木さんから相談によって約7割の悩み事が解消されていくという話がありましたが、それくらい大人たちも真剣に子どもたちを支えています。だから、学校だけが子どもを支える方法ではなくて、学校の外でも支える方法があるということでこのキャンペーンを行なっています。
「生きるのが苦しいという距離感」、僕も苦しいなと思って、実は今でも死にたいという気持ちはあります。だけど、この距離感がすごい近いか、もう少し離れているのか、このあいだに溝が掘られているのか、山を置いているのかというところで落ち着いているのかなと思います。だからこの死にたいという気持ちは、もちろん抱えなかったらいいかもしれないけど、決して持っていて悪いことではないということを当事者として話していきたいと思います。
僕の死にたいと思ったきっかけがやはり不登校からきています。30年も前の話ですが、中学校1年生の頃に中間テスト終わって体が燃え尽きたかのように動かなくなり、その次の日から体が鉛のように重くなり起きられなくなりました。燃え尽き症候群とつけられるでしょう。さらに中1ギャップということもあったような気がします。それまで私服だったのが急に制服になり、今まで「なんとか君」と呼んでいたのが、いきなり先輩とかと言い出したり。あと変なルールですよね、今もブラック校則といって話題に上りますが、そんなど真ん中にいました。また、荒れる学校みたいな時期だったので、出る杭は打ってみるように生徒を締めるみたいな学校生活に馴染めませんでした。
しかし、実はこの不登校だけで死にたくなったわけではなく、その後の父親との関係で死にたくなっていきました。不登校で下がり、さらにここから限界突破で気持ちが下がっていきました。ただ、父親との関係でいうと、例えば僕は少年野球をやっていて一緒に練習にきてくれるとか、仕事も普通にやっていたし、普通の親父でした。だけど、学校に行かなくなり、僕と父親の関係はぎくしゃくしていきました。ある日、焼肉に行き、しらふでは言えなかったのでしょう、泥酔した状態で「学校ぐらいは行ってくれ」と言われました。食べていたカルビがローの味になったのを今でも覚えています。
ようやく学校から離れる生き方もあるかななんて思いながら、自分はどう生きていこうかなと思っていた時に、その言葉に僕はかなり強いショックを受けて、もう一度谷に落とされるような経験がありました。すごくしんどくて、その夜ですね、僕は死にたいな、なんて思って一晩過ごしました。たまたま生きているっていうとこかなと思います。
そこで「なぜ助けてと言わないの」かというと「絶望」にあります。絶望すると人は望んで孤立を選ぶようになります。でも今思えば、これは望まない孤立だったのですが、井の中の蛙状態の中学校2年生の頃の僕は全てに絶望し、助けてという言葉を飲み込んでしまいました。
でも生きていかないといけない。死にかけて一晩過ぎて、ではどうやってここから生きていこうかと思った時に、自分の人生から父親を排除しようと思いました。これ以降喧嘩することもない、だけども全て無視をする。いないものとしてカウントするというような生き方をし続けています。実は僕が多少大人になったと思ったころに少し話をした時期もありましたが、もう15年ぐらい連絡を絶っています。
LINEで「知り合いかも?」に親父が出てきて、「ああ、スマホにしたんだ」なんて思ったのを懐かしく思っています。同じような状況でも影響を受けないことで精神的に自立できたと思ったのはその頃です。
もう一度親父と話し合った時に、親父は建設業で社長をやっていて、僕はNPOでずっと生きてきたのですが、自分の仕事を継がせたいんでしょうね、「そんな仕事してないでちゃんと仕事をしろよ」みたいな、中学校2年生のときに言われたような同じような文脈のことを言われても、僕は彼のことを切っているし、違う関係性、違う生き方を模索して見つけていたので、特に影響を受けませんでした。精神的に自立できていたかなと思います。
ですので、サバイバーとしては、死にたい気持ちに対処するための考え方として「ちょっと待つ」ということがとても大事だと思います。この自死の問題で大きな特徴としては、行ったら戻れないっていうことです。だから、まずは自分を守る、物事から全て逃げてもいいと思うし、まず自分を甘やかして生きてほしいと思います。そうすると、仲間も探せば必ずいるのでぜひ探してほしいと思うし、わかってくれる大人、助けてくれる大人も絶対いるので、絶望から少し回復したら出口戦略として自分の気持ちを話してみてほしいと思います。
その時に僕が嫌だなと思ったのは、自分の話の世界に入ってくるやつ。話を聞いてほしかった。今もしんどくなるときは結構ありますが、そのときはセルフケアをする。今日のこのイベント、僕は楽しみにしていたけど、一方でプレッシャーもあったので、ラーメンを食べてからきました。僕の気持ちは今ラーメンで満たされて喋ってします。自分なりの過ごし方とか逃げ方を覚えておくといいかなと、一サバイバーとして思います。

関戸 博樹 氏

冒険遊び場という子どもたちが自由に遊べる場所を全国に広めるNPOで代表をしています。鈴木さんのお話にあった相談以外の選択肢、やり過ごせる場所の一つでもあるかと思います。私は20年ぐらいこの冒険遊び場づくりに携わっていますが、学校に行っていないという子どもたちや、うちの子が学校に行けなくなったという親御さんに、遊びの場で居場所でこれまで多く出会ってきました。なったばかりという子もいれば、長年不登校という子もいますが、不登校になったばかりの人たちは悩みながら、躊躇をしながら、「行くと楽しいんだけど本当に自分が行っていいのだろうか」といった思いを抱えながら遊び場に足を運んでいるように思います。
そして中学2年生の長男が小学校2年生の時から不登校で、不登校児の親としても日々過ごしています。真ん中の娘は小4ですが、小3のときに不登校だった時期があり、長男長女それぞれで抱えているものというか、行きづらさにつながっているものは別々でした。行けなくなる原因や、その後に行けるようになったきっかけというのもそれぞれにある、多様なのだと思いながら、親としても過ごしています。

パネルディスカッション

関戸》みなさん改めてよろしくお願いします。まず冒頭に聞きたいことは、基調講演の鈴木さんのお話を聞いて、お二人がどのように思ったかなということです。いかがでしょうか。
今》私はSNSをやっていて6万人ぐらいのフォロワーさんがいるのですが、中高生からメッセージがくることもかなりあります。両親には「学校に行きたくない」と言えなくて、話せる大人がいない、もう今本当に死にたいというメッセージが入ってくるので、本当に親には言えないのだなということをすごく実感しています。また私は同時に不登校の保護者なので、お母さんたちからも死にたいというメッセージがくることも多くて、もうなんかどうしたらいいのかわからないけども本当にやるせない思いでいっぱいだし、すごく遠いところの話のように思っていたけど、すごく身近というかすぐ隣にあることだということが、自分に届くメッセージとかから想像がつくから、そういうことを鈴木さんのデータの話を聞きながら、なるほどと思いました。
関戸》ありがとうございます。本当にSOSを出すことって難しい、そんな中でもSNSでは今さんに死にたいとつぶやいてくれる。そういう子や親御さんたちが、身近だと出せないけど、距離感というのでしょうか、その人との心配をかけ過ぎない距離感というか。私も遊び場にいる大人として、子どもたちと楽しい時間を過ごす中で「この人にだったら言っても大丈夫かも」と思ってもらえる、ときどき子どもたちから生きづらさに関する話をぼそっと聞いたりもしますけど、本当に我慢することが常態化しているというか。言えなくて苦しいという子ども、親御さんもいっぱいいるなと思います。
前北》ライフリンクは若者の自死に関する統計から、いろいろと傾向などを分析していると思うのですが、最近の若者、子どもたちの苦しさといったことをどのように見えていますか。
鈴木》相談ができないことが非常に大きいと感じています。相談につながりさえすれば何かしら策はあると思うのですが、相談に対してハードルを感じてしまっていて一人で抱えこんでしまうというケースも多くあると思います。そういった人に対するアウトリーチもなかなか難しい現状もあるので、相談をしない、できない、つながらないことが非常に大きな問題であるとわかっています。
前北》もう一つは、兆候が見られない子たちが多い中で、9月に入り危険度が増すというこの時期に、大人たちがどう子どもや若者たちを見守っていけばいいのか、関わっていけばいいのかについてはどう思いますか。
鈴木》それもまた非常に難しい問題だと思います。子どもは普段からある程度の関係性や信頼関係があると相談してくれると思うのですが、なかなかそのような大人を見つけられない子どもも多いと思います。なるべく子ども自身が、たとえばその相談窓口を知る機会を作る、そういったことも大人が間接的にできることとして大事なことだと思います。
前北》そういった意味では『かくれてしまえばいいのです』は革新的で、相談窓口はすごく固くて若者や子どもに向けたデザインなのかなとずっと思っていました。『かくれてしまえばいいのです』は絵柄もかわいいし、AIがいろいろと聞いてくれる部屋や、あと書きっぱなしできるであったり。開発の意図や裏話みたいなことが聞けたら嬉しいのですが、なにかありますか。
鈴木》相談窓口が逼迫している状況もあって、アクセスしているけどつながらない子どもとか、あるいはそもそも相談することが選択肢にない子どもを想定して作りました。死にたい気持ちを一時的にでもやり過ごすということは非常に重要だと思ってて、今まさに『かくれてしまえばいいのです』を利用している方も一定数いますし、継続的に利用している方も多いので、特に子ども、若者にとっての居場所の一つとして機能していると思っています。隠れるというコンセプトであったり、ちょっと優しい世界観はまさにヨシタケシンスケさんが作りこんでくださって、ヨシタケシンスケさんが作った影響というのは非常に大きいと日々感じています。
前北》サイトに入るとおばあちゃんに声をかけられて、ちょっと知らない人に話すというのもいいなと思いました。でも、そこの周りにいる大人をどう捉えてもらえるにか、やはり鏡なのかなという気はします。
今》私もときどき隠れていました。おばあちゃんと同じ部屋にいると落ち着きますね。不登校の保護者さんから教えてもらって、保護者さんたちも聞いてほしいし、「もうお母さん辞めたい」というときに隠れられて、あそこはとてもいいと思います。
関戸》子どもが相談できない、我慢してしまうその先には、やはり親を心配させたくないとか、自分の不登校によって親が元気をなくしてしまっているということがあると思います。#学校ムリでもここあるよキャンペーンもそうだと思うのですが、このキャンペーンを知って、オープニングイベントを聞いた親御さんたちが、「自分だけじゃなかった」と思えて、少し元気になれるみたいなことがとても大事な気がします。今さん自身がまさに大変だった時期に、おそらく隠れる場所がなかったり、親として選択肢がなかったといった経験があるのではないかと思いましたが。
今》もう、あり過ぎますよね。本には本当にすごいエピソード、子どもを傷つけることは残したくなかった。でも、正直本に書いたことよりも大変なこともあったし、もうとても言えないような、言いたくもないようなひどい言葉もかけました。今私は元気だから言えますが、そのときの自分が悪かったのもあるけれど、自分の口からそれを言わせてしまった、そうせざるを得ない環境だったって思うし、自分のことをよしよししてあげたくなるような、そんな気持ちになります。
関戸》当事者の親だけじゃなく周囲の先生や親戚とかも親身になって、でもその親身さや善意が届かないといったもどかしさもあったりするだろうと思って、そういう時に親が隠れられる、逃げられるということにモデルがないのではないかと思います。自分だけがこうなのかとか、あとは何をどう相談したらいいんだろうという、探り合いが最初にあると思います。例えば学校とかで。我が家は長男の時に学校の先生が「2年生の時も辛かったけど来てくれていたんだね。それ全然気づいてあげられなかった、ごめんね」と口頭一番に言ってくれて、「あ、この先生ならきっといろいろと話ができるな」と思えました。
あと私自身も遊び場づくりをしてきたことで、多くの不登校の親御さんたちや、最初は大変だったけどやがて元気になっていく子どもや親たちにたくさん会えてたので、自分が当事者となったときに悩んだし困りはしたけど、親として隠れ方みたいなものは比較的すぐに見つけられたと思います。運が良かった。だから我が子も「助けて」とすぐに言えたのも良かったと思います。
子どもの「助けて」の声にみんな最初は戸惑うと思います。初めての経験ですから。助けてあげたいけど、どう助けていいかわからない。もしかしたら今日、まさにその真っ只中の親御さんも見ているかもしれないですが、親が不登校を理解するといって、頭で理解していもてどうしたらいいのか、先ほど今さんも話されましたが。
今》そうです。心が追いつかないし、物理的にどうすればいいのかみたいなことがいっぱいあるし、難しかったです。
関戸》そのあたりのバランスの取り方はすごい難しいと思います。どうしたらそこで親が客観的に自分自身や我が子のことを捉られるようになるかということについて、普段支援の場にいる鈴木さんや前北さんはそういう親御さんの変化もようなものはどんな時に訪れたりするか、傾向というか、感じられていることはありますか。
前北》一つは慣れることが結構大事だと思います。例えば不登校の子たちとの接し方でも、「学校に行ってほしい」と思うより「学校に行かない子」と思えると楽になります。喉元過ぎれば熱さ忘れるじゃないですが、慌てていいことはほとんどないので、まずは落ち着いてその状況を捉えてみること。たとえどんな思いを子どもが持っていようとも、その子が学校に行かないという事実はあるので、とりあえずそこで一つ確認してから進んでみる。その間に自分の気持ちがどうなのか、子どもの気持ちがどうなのか、さらに自分の気持ちを子どもに押し付けていないか。僕の場合は不登校になったことよりも、そのあとに不登校だった自分を認めてくれないことが苦しかった。であれば、どこに僕の気持ちを受けてくれる人がいるのか、最後の雲の糸があるのか、雲の糸が目の前で切れたような感覚ですから、そこがやはりしんどかった。そのとき多分親は親で「なぜ子どもを学校行かせないの」という、自身の親かもしれないし近所の人かもしれないですが、社会的なプレッシャーで苦しんでいるだろうなとも思った。ただ、子どもとしてはダイレクトに苦しい。僕の場合は母親が理解をしてくれたことで徐々に回復に進んでいくのですが、今さんはそのあたりをどう乗り越えてきたのかが気になります。
今》不登校って子どもが一番つらいとよく言われるしそうなのだろうけど、それを思い過ぎて、私のつらさは出してはダメだって思っていました、ずっと。私が子どものことを一番に理解して一番支えなくてはならない、だから私の気持ちは言ってはいけないと思っていて、相談先でも本当は学校に行ってほしいとずっと思っているのに言えなくて。そんなことを私が思ってしまっていることさえもすごく苦しくて。その気持ちをただ子どもにぶつけないようにずっとプレッシャーを感じていたので、相談先でも話をするたびに号泣するみたいな感じでした。支援者の方もお母さんが号泣することにみんな慣れていて、聞いてくれるんです。だから「お母さんどうしたいですか」と言われたら「本当は学校に行ってほしいです」って言いながら泣いちゃうんですけど、子どもの前では絶対言わないようにしていました。でも、教育委員会が「子どもの権利として、学校は行きたいときに行く場所ですよ」といってくれて、それは本当にそうだと思うのですが、当時の私は聞けなかった。「自分の気持ちを出せる人がどこにもいないんだ」みたいな絶望感があって。そこから少しずつ自分の中で納得していったのは、やはり子どもの幸せがやっぱり自分の幸せで、子どもが学校を休み始めてから笑顔がすごく増えたこと。そこで「ああ、こっちで良かったし、教育委員会の言っていたことも本当にそうだったんだ」と思えました。ちゃんと子どもの状態に引きずられて上がる時も一緒で、「あ、そうだったんだ」ってわかったという感じです。
関戸》鶏と卵の話のような状態で、「親が支えられて子どもを受け入れられるようになるか」、「子どもが学校に行かずとも元気になっていく様子を見て親が頭だけじゃなく子どもを受け入れられるようになるか」、どちらが先に見つかるかは本当にそれぞれの家庭の置かれている環境や周囲のどんな支援を手にできているかとか、周りからどんなサポートがあるかとかによってきっと違うのでしょうね。
今》相談先で自分が受け入れられない時に言われた言葉が、1年後に「あ、こういうことだったんだ」ってすごいスッと入ってきて、あの時のあの方とても優しかったなとか、その時にもらった言葉の種があとから芽吹くみたいなことがいっぱいあるので、当時は傷ついたかもしれないけど、相談先をいっぱい持っておいたことは少し時を経て自分の栄養になったということがいっぱいありました。
関戸》そういう意味でも、タイミングや親の置かれている状況は影響しますよね。私も最初は自分の子どもが「不登校である自分を直さなきゃいけない」って言っていて、その時に「直さなくてもいいんだよ」と言ってあげられたのでそれは良かった。でもそれは、私の置かれている環境、例えば周囲にも不登校の子がいたり、あとは遊び場づくりもしていたので、この子が今学校に行かなくても学べる場に自分が連れていってあげられるなと、比較的気持ちに余裕が持てていたのはあります。でも、そういう場所がない人たち、今まだ見つかっていない人たちはきっとしんどいだろうと思っています。鈴木さん、相談以外の選択肢というのはどうなのでしょうか。数は増えてはいると思いますが、相談以外のやり過ごせる居場所の整備の現状と、あとは増えていくために足かせになっている課題について、ライフリンクとして考えていることがあれば教えていただきたいです。
鈴木》相談をしてもらうことがこれまでも子どもが何か困ったときの対応策の主要なものの一つだったかと思いますが、相談以外の選択肢はやはりまだまだ不足しているかと思います。それもあって『かくれてしまえばいいのです』ができたという経緯もありますが、ただ、やはり相談をすることのイメージであったり、そこに対して子どもがどういう認識をしているかという点に着目することも大事だと思っています。相談をすることで何か自分の事態が変わるかもしれない、そういったイメージを子どもが持つことができれば、よりスムーズに相談につながると思います。だから、相談した結果や相談してポジティブな状況になったことがもっと社会的に共有されて、子どもにもそれが伝わるような形になるといいのではないかと思います。あと、最近ではAIに相談するといったことも少し増えていたりはします。人には相談できないけどAIには相談してもいいかな、という子どもも一定数いることもあり、AIの活用についても今後検討していく必要も出てくるのではないかと思っています。
関戸》テクノロジーの力で解決できるかもしれないというのはすごいですね。これまでの例えば電話だと受け手の数に限りがあることだったり、相談以外に関しての選択肢も自分の地域にはないとか、あとはアクセスするためには親の協力が必要だったりする。オンラインでAIというのは、今後の子どもだけではなく親にとっても相談のハードルを下げる一つの可能性になるのではないかとお話を聞いて思いました。
鈴木》おっしゃる通りです。あとは、相談というと電話という認識を今でも持たれてる方が一定数いると思います。今チャットやSNSで相談できる窓口も多く設けられていますが、その認知や理解が広がっていないと感じていて、チャットで匿名でいつでも相談できることももう少し知られていく必要があると思っています。
関戸》是非広めて知ってほしいと思います。このキャンペーンもそういうことを知ってもらう一つのきっかけにもなるかと思います。このキャンペーンは夏休み明けの子ども、若者の心を守ることをテーマとしていますが、それは社会の構造の問題でもあります。もちろん最終的には自死の問題につながるのですが、そのきっかけとして不登校という引き金がある。不登校自体も社会の構造の問題ではないかと思っていますが、私自身もそうですが、まず家庭で我が子に起きていることをなんとかしなくてはいけない、最初の一歩とかある程度いくまではどうしても自力で頑張らなくてはならない状況があったと振り返ってみて思います。社会の構造の問題であるとしたら、同じく社会の構造の側での解決策があって然るべきだと思うのですが、そこには至っていないと感じています。簡単な話ではないし、大きな視点になるので難しいとは思いますが、当事者として、最初は自分で頑張らなくてはいけないという時期があったと思う今さんはどう感じられますか?
今》そうなんですよ。子どもが不登校気味だなんて自分ではそんなことは恥ずかしくないと思っているのに、心の中では無自覚にとても恥ずかしいと思っているから、最初は人に言えないのです。とてもつらいのに、友達にもなんかヘラヘラしてしまうというか、「ちょっと学校苦手みたいなんだよね」みたいに言ってしまう。そうするとママ友も「行けるようにないいよね」みたいな感じで。先生は「来てしまえば大丈夫ですよ」といった感じで。そうすると「どうしよう」ってなってしまって、“不登校解決”をネットで検索して怪しげなところにつながってしまうし、情報をとるというところでもすごい苦戦します。私はSNSをやっていたから、学校に行きにくいことを言えたから情報もいっぱい入ってきて、#学校ムリでもここあるよキャンペーンのこともフォロワーさんが教えてくれて。こういう活動をしてくれている団体があるってことだけでもすごく励みになったし、これだけ親が探すことに苦戦している情報をまとめてくれていることにも心強さを感じて、本当に助かりました。
前北》決して子ども側の甘えではないんです。でも、それをどのように捉えるかということが大事で、513人の子たちが亡くなっていて、これを自死だと「ああそうか」くらいに思ってしまうかもしれないけど、もしこれが誘拐された子の数が513人だったらもっと大騒ぎになるはずですよね。でも、今社会的にも話題になっている子どもの声を聞く、アドボカシーというところにも引っかからず亡くなっていく子どもが513人いるのです。どうしても支援者の側の話になってしまいますが、本当に子ども本人のせいにしとおくのかということをやはり大人は考え直さないといけないと思います。その頃の僕の思考回路だと「ただただつらい、こんな気持ち誰にも分かってもらえない、いなくなってしまえばよい」という想い、もちろん僕の未発達の部分や知らなかった世界というのもあるけども、子どもなんだから当たり前であって、子どもの未成熟、未発達、知らない世界があるということを前提に大人たちがここから何ができるのかがやはり大事だと思います。
#学校ムリでもここあるよキャンペーン自体は居場所を持っていないので、やはり主体、主役はそれぞれの居場所を持っている皆さんだと思っています。キャンペーンを通して気づいてそれを継続して地道な活動をしてもらうには、やはり一人ひとりの大人の力が必要になってくるともいます。泣いて、泣いて、泣きまくったあの晩の僕の自分の気持ちを今思い浮かべてみると、そこにつらいだけではなくて最後は出口があるので、どのように出口を一緒に大人が作っていくか、そこに寄り添って一緒に歩いていくかが大事なのだと思います。だから、最初の一歩は大人のマインドが変わっていくことがやはり大事なのかなと思ってしまいます。
関戸》そうですね。大人のマインドが変わる。これは本当にキーワードだと思って毎年キャンペーンをやっていますが、それも大人個人の責任には多分できない。大人が変わるとしても、その大人が支えられて初めて変われると思うのです。今さんも多くの人に支えられていることに気づいたというお話もされていましたが。
今》私が本を出したのも不登校のお母さんが読んで救われてほしいとは正直全く思っていなくて、当事者のお母さんではなく不登校に全く縁がない人に読んでもらってこそ何か変化が起きると思っていて、やはり当事者の周りの人の理解がどれだけ大事かということを感じます。この社会をつくる大人の一員として全然他人事ではないし、大人としてかっこいいところを見せたいと私も思うし、長男が「傷つくことを言う大人もいたけど楽しそうにやっている大人を見て、大人になるって楽しそうだからなってみたいな」と言うこともあったんですね。大人が理解して、そういう皆の理解を深めて手をつなぎあえたらいいなと思います。
関戸》そうですね、当事者の親だけじゃなくて社会全体が認識していくことの大切さ、学校の先生たちは学校以外にも学ぶ選択肢があると知ってはいるけれど、地域のそういう居場所と学校関係者がつながっていなければ困るだろうなと思いながらも「学校に来れたらいいのにね」と多分思ってしまう。そういう意味では学校と地域とその地域の居場所だったり相談先だったり、いろいろなところが連携してこの町の子どもたちが学校に行きづらくなった時に、皆でその子とその親を支えていこうねというネットワークがこの町にはありますよって、町全体で発信してくれていたらすごく安心すると思うのだけど、多分まだそういう状況には至ってない自治体が多いでしょう。だから、不登校に出会った瞬間にどこから手をつけていいんだろうと困ってしまう。
これに対して全てを解決するわけではないけど、多様な学びプロジェクトさんが学校との連絡やり取りのツールを開発して下さったじゃないですか
今》使っています。最高にいいので、全不登校の保護者さんに知ってほしいです。
関戸》何をどう相談したらいいか分からないことに関して可視化されているのが素晴らしいと思います。例えばプリントの受け取りってどうしたらいいですか、とか。
前北》不登校の子どもを育てている保護者の方が一緒に作ってくれました。先生の放っておいてほしいという家庭もあれば、関わってほしい家庭もあるので、どう対応していいのかわからないということや、電話がくることによって萎縮してしまう親御さんの気持ちなどを反映させながらつくっています。
鈴木》私も今さんの漫画を拝読して、それまで不登校になる子どもにばかり目がいってしまっていて、不登校になる子どもの親の葛藤みたいなものを知る機会がなかなかなかったなって思いました。子どもからすると学校ではない選択肢が少しずつ広がっているとは思うのですが、同時に親は不登校、特に初期段階だと受け入れるのが難しかったりすることとか、今お話があったような「どうしたらいいのかわからない」といったケースもかなりあるのだろうと思いました。こうしたツールとか親へのサポートがもう少し社会的に広がっていくことが非常に大事だと感じたのですが、こういったツールとかは少しずつ広がっているのでしょうか。
前北》そうですね。自治体がこれを参考にして似たような書式を作ってくれているという事例も少しずつ少しずつですが広がっています。
関戸》我が子が学校に行った方がいいのか行かない方がいいのかがまだ探っている状態の親、子ども自身もまだグレーでどっちがいいかなという状態であれば、もしかしたら学校から連絡がくることで好転するきっかけになるかもしれないですが、もうきっぱりと学校ではない学びの場・育ちの場を持とうと思っている、ある種もう回復に向かっている親にとっては、連絡がない方が親も子どもも元気になる最短の道かもしれないので、自分はどんな選択したらいいのだろうということが分かるのはすごく大きなことですよね。
前北:心意気の話でいきなりこんな話をするの申し訳ないんですけど、実際に死にたいというような相談を受けたときに、大人はどういった立ち位置や声かけをしたらいいでしょうか?
鈴木》やはり死にたいという言葉を発することは子どももすごく勇気がいることだと思います。まずは否定せずに、しっかり受け止めることが大事だと思います。そこで否定してしまったり、「そんなこと言わないで」といったことを言ってしまうと、その後子どもは心を閉ざしてしまうといったケースも多くあると思います。まずは怖がらずに受け止める。また、受け止め方としても話を聞くのですが、いきなりその理由に踏み込むなど「大人が聞きたいこと」ではなく、あくまで「子どもが話したいことを話してもらう」、そういったスタンスで話を聞くことが初期段階では大事だと考えています。
関戸》同じ質問を前北さんにもしたいと思っていました。鈴木さんと被る部分もあると思いますが。
前北》「話しづらい話をよく話してくれたね、ありがとう」というところから話をします。大事だなといつも思っているのは、「ジャッジよりキャッチを」という言葉です。最近真似して使っているのですが、良い悪いとか、死にたい生きたいとかでジャッジをするのではなく、「今しんどいね、苦しいね、死にたいんだね」というように話を受け止めています。ただし、話がループしたり負のスパイラルに入ってくることがあるので、それで支援者がやられてしまう可能性も頭の片隅に置きながら、一段落したら休憩をしてみるといったことも大事だと思っています。話して深みにはまってドツボになってもっと苦しくなるということも実際にあるので、「そうなんだね」とそこに引っ張られ過ぎないことも結構意識しながら。
関戸》「ジャッジよりもキャッチ」、いいワードを頂きました。ありがとうございます。
では、事前に、そして今日の参加者の方たちから質問を頂いてたり、あと今もYouTube上でもいくつかコメントがきているので、いくつか登壇者の皆さんに答えていただく時間を持ちたいと思います。

【質問】幼稚園や保育園、小学校、中学校時代に学校以外の選択肢が圧倒的に少ない日本。現状だとまだ少ないとこの質問者さんは思っているみたいですが、そういった日本の状況を改善するアイデア、また、世間や近所を温かく感じることのできる施策など、アイデアでもいいので何かあれば教えてください。
今》私は長男が不登校になって完全に学校に行かなくなってから、長男も外出になかなか気乗りしないけど、周りからは「外にちょっとは出た方がいいんじゃない?お散歩ぐらいは」とか言われて、私もううつ状態だったので「分かってるよ!」「言うな!」みたいな感じで、もうキレ散らかすみたいな状態。「もう正論はいらないからほっといてくれ!」と。そういった本当にどうしても動けない時はしばらく親子で休みました。そのあと一緒に近所のコンビニに昼間から行ったり、近所の床屋さんに行って、昼間から顔見せてくれて一緒に雑談してくれる近所のおじちゃんみたいなところから、別に学校行ってないことを責める訳でもない、そういう近所の人の存在がすごく助かって、大人が自分のことを温かく見守ってくれているし雑談できる大人がいるというのが、小さいところから少しずつ積み重なって、いろいろなコミュニティに行ってみたり、そこからどんどん広がっていきました。だから「不登校になったらフリースクールに行けばOK」みたいな風潮も私はどうなんだろうと思っています。選択肢の認知が広まることもいいですが、それよりもっと地域から昼間歩いていても「おはよう」と言えるぐらいの感覚がもっと広がるといいのかなってすごく思っています。
前北》夜の時間の居場所が広がったらいいなと思っています。やはり昼間より夜の方がしんどいです。だから夜と付き合える場所みたいなものが広がってくるといいのかなと思います。一方で安心と安全の観点で考えると、安心だけど安全じゃない場所というのもあります。安心と安全をどう守っていくのか。#学校ムリでもここあるよキャンペーンでもセーフガーディングなどを取り入れながら、子どもたちの安心と安全の居場所づくりを担っているのですが、そこで今ちょっと手が伸びていない10代後半を考えると、やはり夜の時間の居場所がないことも一つ次の一手となる、そういう居場所も増えてくるといいのかなと考えています。
関戸》ありがとうございます。夜の居場所という話が出ましたが、オンラインだと夜も含めて可能なのかなと思って聞いていましたが、鈴木さん何かコメントをお願いします。
鈴木》まさに『かくれてしまえばいいのです』みたいな場所を是非活用してほしいと思いますし、あと私は今セネガルに住んでいるので、セネガルの社会と日本の社会を対比して考えると、さきほどの今さんの話にも通じますが、日本社会はやはり「こうあるべき」とか「こうあった方がいい」みたいなことがすごく強いと感じています。一方でセネガルは「どうあってもいい」という形の社会なので、この「どうあってもいい」という認識がもっと日本でも子ども大人に限らず広がっていくと、より生きづらさみたいなものを感じにくい社会になっていくのかなということを感じています。
関戸》私も日本の社会がそういったものへの寛容性を失っていると思っていますが、よく遊び場づくりの観点から、大人がもっと遊び心だったり地域とつながるということを取り戻すことが、寛容性を取り戻すために大切ではないかという話をしています。地域でつながれる場所だったり人がいる、昔の悪い意味でのなんでもかんでも筒抜けみたいな村社会的なものではなく、今は目的別にコミュニティを作っていけるのではないかと思っています。本当に多様な人が暮らしているので、全ての人と仲良くなるというのはなかなか難しいですが、学校に行けなかったり地域の中で居場所がないという人たちが集える場所だったりコミュニティだったりの一つに遊び場づくりがなるのではないかと思っています。地域のインフラとして今後増えていくといいと思います。次にYouTubeからの質問。

【質問】電話で相談できたりチャットに書き込める子どもはどうして相談ができるのか。思春期の息子に相談先としていろいろ伝えているけど、踏み切れていないようです。相談につながれる子どもたちは、どういったきっかけや動機、心理状況なのでしょうか。
前北》苦しい気持ちがあることと、それを言語化する能力は別だと思っています。この言語化のアウトプット先として、電話相談とチャットが合っているのか。苦しさを「うおー!」って体全体で暴れることで表現することも意思表示だと思うので、いろいろあるのかなという気がしています。
鈴木》今前北さんがおっしゃった通り、自分の悩みを言葉にすることにまずハードルを感じる子どもが一定数いると思っています。言葉にできるのであれば相談につながるし、逆に言葉にできないからこそ相談につながれない子どもは、やはり一定数いると思います。
関戸》言葉にできない子たちにはどんなサポートがあるといいのでしょうか。
鈴木》とても難しいですが、やはりたとえば『かくれてしまえばいいのです』といった居場所を活用してもらいながら、掲示板もあったりするので自分の気持ちを吐き出してみる。吐き出すことで少し気分がすっきりしたり、ちょっとでも気持ちが変わったりすることもあると思うので、そのような積み重ねを通じて、「ちょっと相談してみようかな」と思ってくれたら。『かくれてしまえばいいのです』はそういう思いをこめて設計していたりもします。
関戸》自分の中で表現できないものがそこで誰かの言葉として可視化されていたりすると、「あ、この子の気持ちは自分と同じだ」と、誰かの言葉が自分の言葉になることもあるかもしれないですね。もう一つYouTubeの方からの質問です。

【質問】子どもが小4のときに、泣きながら最後に死にたいと叫ばれたことがあります。自分も精神的に不安定だったのでどのように対応したか記憶が残っていないのですがショックでした。質問は小学生の自死、これが増えているのでしょうか、ということです。
鈴木さん、統計的に小学生の自死がどういう状況になっているか教えていただけますか。
鈴木》小学生の自死は横ばいですが、子ども全体をみても、小学生の場合は特に原因とか動機が「不詳」というのがとても多く、親としてもなぜ自死に至ってしまったのかわからないということも。子どもの自殺の実態調査が、特に年齢が下がるほど進んでいないという現状もあったりしますので、非常に難しい問題だと思っています。
関戸》ありがとうございます。本当に悲しいという言葉では表現しきれないです。前北さんがご自身をサバイバーと表現されていました。全部は脱却できていないかもしれないけど変化をしながら今も生き延びて、大人になってという子はいると思いますが、質問の中に、

【質問】子どもが不登校になったあとに「自分って大人になれるの?」という心配を抱いてしまっている、無事に大人になった人たちの変遷を知りたい
というものがあって、もちろん一人ひとり違うドラマがあるとは思いますが、いくつかパターンのようなものがあるのでしょうか。もし紹介できることがあれば、前北さんにお聞きできれば。
前北》大人になれるかなれないかで言うと、大人にはなれます。僕のおでこに“元不登校”みたいな焼き印はないので、安心して学校を休んでほしいと思います。生き方、育ち方は本当に人それぞれですが、「その子はその子にしかならない」ということが大事で、むしろその子がその子らしく生きられないところに苦しさが生まれるのだと思います。例えばその子に合わない学び方をしているだとか、例えばグループ学習がしんどいとか、今の時期だとプールがしんどい、といった子たちもいっぱいいると思います。そういうことは避けたとしても大人になれるので、自分にしんどいこと、つらいことは少しチョイスをしながら。「我慢しないと大人になれない」という言説ももちろんありますが、我慢をすることも力だけども、我慢しなくていい場所を探すことも力なので、後者の我慢しなくていい場所を探す、我慢しなくていい働き方を探す、育ち方を探す、学び方を探す方にシフトチェンジしてもいいと思います。問題なのは、星型の子を手足の出ているところを全部切り取って丸にして出荷しましょうというところで、そこから外れて星は星のままである場所にできると意外にいろいろと大丈夫です。あとは、育つ時間を確保することも大事だと思います。今うまくいっていないことも、少しずつ少しずつ自分の成長になる。あと、小学生の不登校で言いたかったのは、子どもの頃に「死ぬほどつらかった経験ってなんですか」と言っても、死ぬほどつらかった経験をしていないから、答えられないはずなのです。大人には自分の経験から「あれは死ぬほどつらかった」と言えるけど、経験がない子にその子が耐えられないストレスが当たった場合に、それが大丈夫なものなのかが判断できない。だから「無理して学校行かさないでね」というのです。無理か無理じゃないかが子どもは分からない。だから、少し様子を見ることが大事だと思うし、「死にたいな」って気持ちを抱えたときにちょっと待ってみるということもそうなんですよね。同じ言葉がけを僕にされても、10年後の僕は同じ人から同じようなことを言われても平気だったことを考えると、10年後の自分に託してみるというのも一つ手なのだと思っています。
関戸》ありがとうございます。鈴木さんからも基調講演のなかで、我慢の常態化という話もありましたが、怖いのは過剰適用してしまうこと。本当は星でいたいのに無理矢理に切断なのか縮こめるなのかしながら丸の中に収まり続けてしまう。それが自分でも苦しいということに気がつかないぐらい丸の中に収まり続けてしまうことで、どこかでひびが入って、“バンッ”と星ですらなくなってしまうときが来てしまうのではないかと思いながら聞いていました。では最後の質問。

【質問】行きしぶりがある子どもが家で抵抗ばかり、ルールを守れないで疲れてしまいました、かわいく思えません。どのように変えていったら良いでしょうか、
という保護者さんから質問ですが、これは今さんにお答えいただけたらと思います。
今》そうですね。私もかわいいとは思えなかったですね、つらかったので。私も本の中で320人の保護者の方にアンケートを取ったのですが、「子どものことをかわいく思えない時があった」と答えた人が83.3%でした。それだけいると知っただけで、私は自分だけが母親失格だった訳ではないんだ、そういう状態になってしまっていたんだと思えました。だから、決してお母さんたちって子どものことを愛していないとかではなくて、今一時的にそういう状態になっているだけ、時間とか心とか体の余裕のなさでそうなってしまっているだけだから、自分を責める方向には向かないでほしいし、人に話したり休んだり、ひたすら寝てみたりしてほしいです。私は子どもと本当にまずいときは喋らない、とりあえず「私は今ちょっと調子が悪いから別の部屋にいてもいい」と言って離れるということをしていました。
関戸》距離を取るって大事ですよね。それは物理的な距離もあるし時間というのもありますね。

閉会

関戸》ありがとうございました。最後に一言ずついただいて終わりにしたいと思います。前北さんからは閉会の挨拶も合わせて。
今》すごくいろいろなことを学べたし、いろいろな角度からの視点が入ったし、データもなるほどと思ったし、学びが深かったです。ありがとうございました。
鈴木》私もすごく学びになることが多かったです。特に不登校についてはなかなか知り得ない部分もありました。この講演をするにあたって今さんの本とかを拝読するなかで、新たに知ることや気づけることもあったので、非常に貴重な場をいただけたと思います。どうもありがとうございました。
前北》あっという間の1時間半でした。皆さんとこの時間を共有できたことにとても幸せな気分になっています。このテーマで実に130人の人たちが最後まで視聴してくれた、途中150人ぐらいのときもあったのですが、本当に驚きと、子どもたちを支えていく大人が徐々に広がっているのかなと思います。
私は鈴木さんや今さん、関戸さんと話をし、子どもの自死についてどう考えていくのかを考えられる輪が徐々に広がっていき、いろいろなところと協力しながらこのキャンペーンも進められていくことに、一居場所の元スタッフですけど、なんかとても安心感を持っています。
やはりこの問題、主人公は実は一人ひとり皆さん自身だと思っています。子どもの自死だとか死にたいという気持ちは、遠いように感じるかもしれないですが、それを支えていく周りにいる大人たち、一緒に考えていく大人たちも主人公ですので、是非その主人公は私なんだということを忘れずに、このキャンペーンを一緒に進めていければと思っています。